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黒船来航(くろふねらいこう)とは

黒船来航(くろふねらいこう)とは、嘉永6年(1853年)にアメリカ合衆国の海軍所属の東インド艦隊艦船が、日本の江戸湾浦賀(神奈川県横須賀市浦賀)に来航した事件。マシュー・ペリー提督によってアメリカ合衆国大統領国書が江戸幕府に渡され、日米和親条約締結に至った。日本では一般に、この事件から明治維新までを「幕末」と呼んでいる。

欧米による帝国主義時代・開港による植民地化を目的とした寄港拠点の確保

産業革命を迎えた西ヨーロッパ各国は、大量生産された工業品の輸出拡大の必要性から、インドを中心に東南アジアと中国大陸の清への市場拡大に急いでいたが、後にそれは熾烈な植民地獲得競争となる。競争にはイギリス優勢のもとフランスなどが先んじており、インドや東南アジアに拠点を持たないアメリカ合衆国は、西欧との競争のためには、清を目指するうえで太平洋航路の確立が必要であった。
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アメリカの思惑の本質・捕鯨船の物資補給を目的とした寄港地の確保

産業革命によって、欧米の国々は日本沿岸を含み世界中の海で、「近代捕鯨」を盛んに行なっていた。これは、夜間も稼動を続ける工場やオフィスのランプの灯火として、主にマッコウクジラの鯨油を使用していたからである。太平洋で盛んに捕鯨を操業していたアメリカは、太平洋での航海・捕鯨の拠点(薪、水、食料の補給点)の必要に駆られていた。

実際にアメリカが、日本近海で捕鯨を目的とした操業を行っていた例として、ジョン・マンこと中濱万次郎は、高知沖で、遭難し無人島の鳥島に仲間といたところ、アメリカの捕鯨船に救助された。当時15歳だった万次郎は、捕鯨船の船長の養子同然となり、その後アメリカにて修学し、アメリカで近代捕鯨の捕鯨船の船員となった。しかし、望郷の念は強く、カリフォルニアの金鉱で働き得た資金により、捕鯨船を確保し、ハワイに残された土佐の清水中浜村の漁師仲間と共に、日本に帰るべく出航した。

当時の薩摩藩琉球にたどり着いたとき万次郎は25歳であった。その後、紆余曲折はあったが、日米和親条約の平和的締結に向け、通訳やアメリカの思惑や情勢を詳しく知る者として、時には裏方として尽力した。これら万次郎が幕府に徴用されたのは、英語話者やアメリカ滞在者としての経歴だけでなく、アメリカの目的が捕鯨基地であり、万次郎自身がそのアメリカの捕鯨船船員であったことも無視できないだろう。

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2009年06月10日 06:55に投稿されたエントリーのページです。

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